小説『銀河の重力、あるいは愛の質量』
序章:九十グラムの孤独
大阪・帝塚山。鉛色の空から霙(みぞれ)が降り注ぐ午後だった。
築五十年の日本家屋の奥まった和室で、牧村(まきむら)紗月(さつき)は、遺品整理の埃にまみれていた。
「お母さん、これ……」
紗月の震える指先が、黒革のケースを開いた瞬間、薄暗い部屋に稲妻のような光が走った。
そこに鎮座していたのは、時計という概念を超えた「光の塊」だった。
『PIAGET(ピアジェ)』。モデル名『タナグラ』。
紗月は息を呑んだ。これがあの、祖母・静子(しずこ)が生涯肌身離さず身につけていたものか。
震える手で持ち上げる。
「うっ……」
思わず声が漏れた。見た目の優美な曲線美からは想像もつかない、暴力的なまでの重量感。
紗月は思わず左腕に巻いてみた。
ひやりとしたホワイトゴールド(WG)の冷徹な感触が、手首の静脈を冷やす。
そして、その重さ。
90.79グラム。
通常のレディスウォッチの三倍、いや四倍はあるだろうか。18金無垢の塊は、まるで手首に枷(かせ)を嵌められたかのように、紗月の左手を重力に従わせた。
「お祖母ちゃんは、こんなに重いものを、毎日背負っていたの……?」
文字盤を見る。そこには「時間」を示す数字の隙間がないほどに、天然純正ダイヤモンドが敷き詰められていた(パヴェセッティング)。ベゼルにも、ラグにも、余すところなくダイヤモンドが埋め込まれている。
ケース幅24.8mmという小宇宙の中に凝縮された、圧倒的な富と、冷ややかな美学。
「捨ててしまいなさい」
背後から、母・洋子(ようこ)の冷淡な声が響いた。
洋子は、その時計を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていた。
「その時計は、あの人の『業(ごう)』そのものよ。家族を顧みず、夜の街で男たちに媚び、金を巻き上げ、その象徴として手に入れた汚れた金塊。見るだけで虫唾が走るわ」
紗月は母の言葉に反論できなかった。
祖母の静子は、バブル期の大阪ミナミで「伝説」と呼ばれたクラブのママだった。家庭を壊し、夫を捨て、幼い洋子を寄宿舎に入れてまで、夜の世界でのし上がった女。
この『タナグラ』は、そんな祖母の栄光と孤独の象徴だった。
しかし、紗月はなぜかその時計を外すことができなかった。
無垢のホワイトゴールドが体温で温まり始めると、不思議な鼓動が聞こえてくるような気がしたからだ。
リューズを回すことさえ許さないクォーツ(QZ)の正確無比なリズム。
それは言っていた。
『あんたに、この重さが耐えられるか』と。
第一章:バブルの塔と黄金の雨
時は遡り、平成元年。
大阪・ミナミの宗右衛門町。ネオンが昼間の太陽よりも眩しく輝いていた時代。
静子は、心斎橋の高級宝飾店のVIPルームにいた。
「ママ、イエローゴールドの方が華やかでっしゃろ? 今の流行りや」
店の主人が勧める煌びやかな時計を一瞥もせず、静子はショーケースの奥に鎮座していた「それ」を指差した。
「いいえ。あの白いのがええわ」
ホワイトゴールド。当時はまだプラチナやWGよりも、成金趣味のイエローゴールドが持て囃された時代だ。
だが、静子は知っていた。本当に熱い炎は、赤ではなく青白いことを。
そして、本当に強い女は、金をひけらかすのではなく、冷ややかな輝きで武装するのだと。
「ピアジェのタナグラ……。古代ギリシャの素焼きの人形(タナグラ人形)に由来する名ですが、この時計はまるで鎧ですな」
「そう、鎧よ」
静子はその場で900万円近い現金を積んだ。
愛人に買わせたのではない。自分の才覚と、血を吐くような努力で稼いだ金だ。
腕に通した瞬間、ズシリとした重みが骨に響いた。
重量90.79グラム。
それは、彼女が切り捨ててきた家庭の温かさの重さであり、裏切ってきた男たちの恨みの重さであり、それでも守り抜きたいと願った「何か」の重さだった。
「これで、誰も私を軽んじることはできへん」
静子はその時計を武器に、バブル崩壊後の荒波も、リーマンショックの激震も、全て乗り越えてきた。
しかし、その代償として、娘・洋子の心は完全に離れていった。
ダイヤモンドが光れば光るほど、家族の団欒には暗い影が落ちた。
第二章:連鎖する不幸
令和の現在。
紗月自身の人生もまた、行き詰まっていた。
32歳。大手商社に勤めていたが、激務とパワハラで心を病み、休職中だった。
婚約者だった男は、紗月が休職した途端に「君の重さには耐えられない」と言って去っていった。
「重い、か……」
自室のベッドで、紗月はタナグラを眺めた。
ケース幅24.8mm。現代のデカ厚時計に比べれば華奢なサイズだ。
しかし、この密度の高さはどうだ。
中身が詰まっている。隙間がない。
私の人生はスカスカなのに、この時計はあまりにも充実している。
紗月は、母の目を盗んで、この時計について調べ始めた。
ピアジェ。スイスのジュラ山脈に工房を構える、極薄ムーブメントと宝飾技術の最高峰。
特にこの「タナグラ」は、ブレスレットとケースが一体化したようなデザインで、黄金の彫刻と称される。
腕周り16cm。紗月の手首には少し緩かったが、コマを詰めればジャストフィットするだろう。
「なぜ、お祖母ちゃんはこれを買ったの?」
紗月は、祖母が遺した日記帳を開いた。
そこには、数字と顧客の名前ばかりが並んでいたが、時計を買った日のページにだけ、殴り書きのような文字があった。
『タナグラを買う。白き炎。
いつか、あの子らが路頭に迷うた時、これが灯台になる。
ダイヤは砕けない。金は腐らない。
私の愛は歪んでいるが、純度は100パーセントだ』
紗月の目から涙が溢れた。
「あの子ら」とは、娘の洋子と、まだ見ぬ孫のことだったのではないか。
静子は、自分の稼いだ金を、最も換金性が高く、最も美しく、そして最も頑丈な形で残そうとしたのだ。
銀行が破綻しても、紙幣が紙屑になっても、18金無垢の価値は消えない。最高級の天然ダイヤモンドの輝きは曇らない。
これは宝石ではない。
これは、祖母がその身を削って鋳造した、家族のための「緊急避難用シェルター」だったのだ。
第三章:氷解する母娘
紗月はリビングへ走った。
ソファで背を向けて座る母・洋子の前に、時計を差し出した。
「お母さん、これを見て。着けてみて」
「嫌よ。そんな呪いのアイテム」
「いいから! お願い!」
紗月の剣幕に押され、洋子は渋々左腕を出した。
紗月は、母の細くなった手首にタナグラを巻いた。
パチン、というクラスプ(留め具)の音が、静寂な部屋に響いた。
「……重い」
洋子が呟いた。
「そうでしょ。重いでしょう」
「……ええ。本当に、馬鹿みたいに重い」
洋子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その涙は、文字盤のダイヤモンドの上に落ち、光を乱反射させた。
洋子は気づいたのだ。この重さは、母・静子が一人で抱え込んでいた、家族を守るという責任の重さだったことに。
愛していなかったから突き放したのではない。
泥沼のような夜の世界に、娘を引きずり込みたくなかったから、遠ざけたのだ。
そして、自分が死んだ後、娘たちが金銭的に困らないよう、この90グラムの塊を残した。
「お母さん、ずっと寂しかったんやね……」
洋子は時計を抱きしめるようにして泣き崩れた。
三十年の氷が、ダイヤモンドの光の中で溶けていった。
第四章:令和の再生、そして旅立ち
それから数週間後。
紗月と洋子は、心斎橋の御堂筋を歩いていた。
銀杏並木が黄金色に輝く季節。二人の表情は晴れやかだった。
「本当にいいの? 紗月」
「うん。お祖母ちゃんの想いは、もう十分に受け取ったから」
二人は話し合った。
この時計は素晴らしい。しかし、今の紗月たちのライフスタイルには、あまりにも豪華すぎた。
それに、この時計を「資産」として眠らせておくよりも、これを売って、新しい人生の資金にすることこそが、祖母の本当の願いだと気づいたのだ。
紗月は、この資金で小さなカフェを開く夢を持っていた。
洋子も、老後の不安が消え、趣味の絵画教室に通い始めるという。
静子の遺した「重み」が、二人の背中を押す「翼」に変わった瞬間だった。
二人が目指したのは、心斎橋・順慶町通り(じゅんけいまちどおり)。
ブランド品の買取と販売で、関西一、いや日本有数の信頼を誇る店。
『ブランドクラブ心斎橋』。
モダンなビルの二階へ上がると、そこには洗練された空間が広がっていた。
店主に案内され、紗月は黒いケースをカウンターに置いた。
「拝見いたします」
店主は白手袋をはめ、恭しく時計を取り出した。
その瞬間、店主の目が鋭く、しかし温かく輝いた。
「これは……見事ですね。ピアジェのタナグラ。それも、文字盤からベゼルに至るまで天然純正ダイヤモンドが施された、最高級のハイジュエリーウォッチです」
店主はルーペを目に当て、細部を確認していく。
「ケース、ブレス共に18金ホワイトゴールド無垢。総重量90.79グラム。傷一つない、奇跡的なコンディションです。何より……」
店主は顔を上げ、紗月と洋子を見た。
「とても大切にされてきた、愛のオーラを感じます」
その言葉に、洋子は微笑んだ。
「ええ。母の、魂のような時計でした」
査定額は、二人が想像していた額を遥かに超えるものだった。
それは単なる地金の価格ではない。
デザイン性、ブランドの価値、そしてダイヤモンドの質。すべてを正当に、いやそれ以上に評価してくれた金額だった。
「ありがとうございます。ここなら、安心してお任せできます」
紗月は深々と頭を下げた。
終章:光のバトンタッチ
手続きを終え、店を出た二人は、冬の澄んだ空を見上げた。
手首は軽くなった。しかし、心の中には、あの心地よい90グラムの温かさが残り続けていた。
「ありがとう、お祖母ちゃん。行ってきます」
紗月は新しい未来へと歩き出した。
一方、ブランドクラブ心斎橋のオフィスでは、店主が慎重に出品作業を行っていた。
この時計は、次の主を待っている。
ただの装飾品ではない。
誰かの人生を支え、励まし、輝かせるための「光の鎧」。
PCの画面に、高画質の写真がアップロードされる。
黒い背景に浮かび上がる、ホワイトゴールドとダイヤモンドの銀河。
そして、タイトルが打ち込まれる。
F0715【PIAGET】タナグラ 天然純正ダイヤモンド 最高級18金WG無垢レディQZ 腕周り16cm 重量90.79g ケース幅24.8mm
出品ボタンが押された。
世界と繋がるその瞬間、時計の針が、新たな時を刻み始めた。
この時計を次に手にするのは、きっと、人生の重みを知る、素敵な女性だろう。
物語は終わらない。輝きと共に、次のステージへ。
(完)
【出品情報】
出品者: ブランドクラブ心斎橋
住所: 大阪府大阪市中央区順慶町通り
掲載サイト: ヤフオク!(Yahoo! Auctions)
商品名: F0715【PIAGET】タナグラ 天然純正ダイヤモンド 最高級18金WG無垢レディQZ
スペック:
腕周り:約16cm
重量:90.79g
ケース幅:24.8mm
素材:K18WG無垢、天然ダイヤモンド
※この物語は、実在する最高級時計の魅力を伝えるためのフィクションですが、その輝きと価値は本物です。