御存知!名手John Sykes幻の名曲及び在籍時Tygers of Pang Tang貴重音源集 日本独自企画盤「Please Don't Leave Me」紙ジャケットSHM-CD仕様限定盤 国内盤中古でございます。
盤共に非常に状態の良い中古でございます。
内容は言わずもがな。
ラインナップは名手揃い。
”Please Don't Leave Me”:John Sykes(G、ex- Tygers of Pang Tang、後にWhitesnake、Blue Murder、Sykes)、故Phil Lynott(Vo/B、当時Thin Lizzy、後にGrand Slam、Gary Mooreセッション等)、
Brian Downey(Ds、当時Thin Lizzy)、Darren Wharton(Key、当時Thin Lizzy、後にDare)となります。
(他の収録楽曲は全て”Tygers of Pang Tang”:Jon Deverill(Vo)、Robb Weir(G、B-vo)、John Sykes(G、B-vo)、Richard”Rocky”Laws(B、B-vo)、Brian Dick(Ds)となります)
プロデュースは”Please Don't Leave Me”のみ、かの故Chris Tsangaridesとなります。
(Tygers of Pang Tang:The Searchersリメイク楽曲”Love Potion No.9”はかのPeter Collinsによる制作の模様)
”Please Don't Leave Me”:1982年9月アイルランド・ダブリン”Lombardo Studios”での制作。
(既に1982年6月~9月アイルランド・ダブリン”Lombardo Studios”にて、Thin Lizzy”Thunder and Lightning”の制作が始まっており、その末期に制作された感)
White Blues及びその応用系名手Snowy Whiteを迎え制作された大傑作”Chinatown”が(米国では惨敗であったものの)英国・ヨーロッパ圏でまずまずの好評。
ツアーも好評に終わり、前作”Chinatown”で指向したベーシックな音楽性をより進めようと次作の制作に乗り出す事となります。
プロデューサーに再びKit Woolven(大傑作”Black Rose”でエンジニアを務め、故Phil Lynottソロ作を手掛ける。後にVowWow他)を迎え、制作。
完成後に満を持して先行シングルとして”Trouble Boys/Memory Pain”をリリース。
されど、驚愕の不振を記録するとなります。
慌てたバンド側はその”Renegadeオリジナル版”をお蔵入り。
「(HR/HM面含めた)バンドの音楽性にNew Wave等八十年代の洗練された音楽性を加える」という方針を故Phil Lynottが新たに打ち出し、
急遽故Chris Tsangaridesを迎え、英国ロンドンにて作曲~制作完了まで三週間という突貫工事にて”改訂版Renegade”を制作、(メンバー内の深刻な家庭問題を引き起こしつつも)リリースに漕ぎ着けます。
突貫工事制作で大きな貢献をしたDarren Whartonを正式メンバーに迎えリリース後はツアーに勤しむものの、非常なセールス不振。
ツアーも動員不振で短期間で終了という惨敗振り。
更にはマネージメントから””長年の「ミュージシャン特有の私生活問題」から来るバンド運営費の浪費そして枯渇問題””が提示され、「次作での解散」を迫られる事となります。
バンド内の人間関係等に悩み、更なる混乱と新たな音楽性に嫌気が差した名手Snowy Whiteは脱退を示唆。
バンド側は引き止めを図るものの、話し合いの末に(次作制作を始めていた)1982年8月に正式脱退。ソロへの道を踏み出す事となります。
(翌年Blues/Fusion系大傑作1stソロ”White Flames”を制作。シングルの大ヒット等生み出し、成功を収める事となります)
Snowy Whiteの脱退示唆から引き留めを図るものの、本人の意思は固いもの。
徐々に後任人事を進める事となり、故Phil Lynottは以前前座を務めたNWOBHMの名バンド”Tygers of Pang Tang”の(名手Don Airey曰くの)「Gary Moore/Randy Rhoads系ギタリスト」名手John Sykesに注目する事となります。
その名手John Sykes。
当時名手Randy Rhoadsを不慮の事故で失ったOzzy Osbourneマネージメント側から(ツアーを兼ねた後任就任試験中だった故Bernie Torme解雇決定による後任試験の)アプローチを受け、
急遽”Tygers of Pang Tang”を擦った揉んだの末脱退。
Ozzy Osbourneの全米ツアーに駆け付けるものの、後任は既にかの名手Brad Gillis(現Night Ranger ex-Rubicon)に決定済。
泣く泣く英国にとんぼ返りとなります。
その後、かのJohn Sloman(ex-Lone Star、Uriah Heep 後にGary Moore/Paul Youngツアー・サポート他)結成の”John Sloman's Badlands”に加入。
契約を目指し録音行うものの、契約は得られずお蔵入りし解散(John Slomanが音源を所有の模様)。
”Tygers of Pang Tang”との契約絡みで”MCA”とのシングル作制作契約を履行問題がJohn Sykesの頭を擡げる事となりますが、そこに故Phil Lynottがアプローチする事となります。
他にもかのAdrian Vandenberg(現Vandenberg ex-Teaser、Whitesnake、Manic Eden、Vandenberg's Moonkings他)等々にもアプローチ。
プロデューサーに前作同様故Chris Tsangaridesを迎え、地元ダブリンの”Lombardo Studios”にて新作の作曲等の制作を6月から進め大半の楽曲を完成させつつThin Lizzy側はオーディション選考を行うものの、
故Phil Lynottは名手John Sykesに非常に重きを置いていた感があり、1982年9月に後任として正式決定。
(加入に当たりJohn Sykesには「一回の制作・ツアーで解散」を通知。John Sykesもそれを了承の上で加入の模様)
John Sykes正式加入発表が9月という事ではございますが、”Thunder and Lightning”制作開始時には既にSnowy Whiteは事実上の脱退(8月に公式発表)。
初期制作時と並行してオーディション選考でAdrian Vandenberg等が呼ばれておりますが、それ以前からJohn Sykesは既に助っ人という形で絡んでいた感。
同月手始めとお互いの音楽性の手の内を探る事もあり(John Sykesの契約消化を兼ねた)シングル”Please Don't Leave Me”を制作する事となります。
そしてその制作を挟み舞台を英国ロンドンに移し、本格的に制作開始。
Wharton/Sykesという若手二名の音楽性や意向を重視、故Phil Lynott曰くの「(前作から更に進めた)HMとNew Waveの融合」を礎とした音楽性を強く指向。
最終作”Thunder and Lightning”が完成する事となる...........................という面倒な経緯がございます..............................
さて、”Please Don't Leave Me”。
非常に貴重なSykes/Lynott楽曲の一つでございます。
John Sykes本人曰く「全く売れなかった」との事でございますが、後にPretty Maidsが大仰気味にアレンジ/リメイクし、結構なヒットを記録。
(但し、後のBlue Murder等でのJohn Sykesのライヴで聴衆がPretty Maidsヴァージョンで合唱という事態に陥り、古来からのThin Lizzyファンが呆れ果てる事に...........Pretty Maids側は喜んでいた模様でございますが.........)
John Sykesソロ名義ではございますが、制作時期が”Thunder and Lightning”と重なる上に制作スタジオもプロデューサーも同じ、
おまけにScott Gorhamを除くThin Lizzy(Lynott/Downey/Wharton)参加がミソでございます。
正直、Thin Lizzy特有の印象的な単音メロディアス・ツインリードが聴かれる事で、Thin Lizzy新曲用として作曲されていた感がございます。
John Sykesのソロ契約解消(故Gary Moore再加入時にも似た話が........)の為に、ソロとして選曲・制作されたという感がございますが、
「感傷的過ぎる」「新作の音楽性に合わない」とScott Gorhamや他のメンバーから反対に遭い.............という感もございます。
淡さと憂い、儚さのある美しいメロディで非常に印象的ではございますが、さらりと流れていく曲調がミソ。
また歌詞共に儚さと淡さ、憂いという感がございますが、作曲/制作時がアイルランド夏の末期~初秋という時期。
過ぎ行く季節の中で終わった恋愛の儚い追憶という感がございます。
ギターソロはJohn Sykes特有の若干弾き過ぎ気味なものではございますが、淡々と流れていく曲調の中でツインギターのメロディと共に起伏を付けるという感のあるもので、楽曲とのバランスにも配慮したもの。
Tygers of Pang Tangのギタリストとしての活動から驚くべき音楽的成長を遂げている事が分かるものでございます。
故Phil Lynottの詩人の一人語り的で儚く淡く憂いのあるヴォーカルに注目が当たりますが、Brian Downeyの曲調に合わせた非常に繊細な演奏や
Darren Whartonの繊細で淡い空間を作り出すオーケストレーション及びバッキング演奏も非常に見事なもの。
また録音時期からも非常に貴重なセッションの記録という感がございます。
音楽的には非常に実りの多いものという感があり、故Phil Lynottとの共作は非常に限られたものではございますが、他にもあるのでは?との感がございます。
他には同曲の短縮ヴァージョンにインストルメンタル・ヴァージョン収録でございますが、短縮ヴァージョンのインストルメンタル・ヴァージョンが未収録。
いつの日か陽の目を見る事があるのでしょうか...............................
またJohn Sykes在籍時”Tygers of Pang Tang”のシングルのみ楽曲やシングルB面収録のライヴ音源という貴重音源が多数収録されておりますが、
その昔、日本のビクターが独自編集したアルバムと同じ感がございます。
(但し、John SykesがTygers of Pang Tang”オーディション選考時に録音された音源は含まれておりませんが....................................)
非常に貴重な音源ではございますがJohn Sykes在籍時というより、NWOBHMの雄としての”Tygers of Pang Tang”の貴重音源として聴かれる事がミソでございます。
故Phil Lynottとの出会いが如何にJohn Sykesの才能を開花させたか?という事が分かるものでもございますが..............
(John Sykes曰く「David CoverdaleもCozy Powellも重要だが、Phil Lynottは特別な存在」との事でございますが.........)
但し、このメタル感覚がかの大傑作”Thunder and Lightning”に生かされた感がございます.............................
(プロデューサーも傑作”Spellbound”と同じ故Chris Tsangarides.................)
さて、上記楽曲制作を挟んで、最終作”Thunder and Lightning”本格制作に突入する訳でございますが...........................................
既に英国から米国にHR/HMシーンの中心が移行し、八十年代のメタル・ブームが本格的に始まった時期。
また英国ではNew Wave系のコンパクトで煌びやか、メロディアスでインパクト重視の音楽性が以て囃された時代でございます。
故Phil Lynott曰くの「メタルとニュー・ウェイヴの融合」という音楽性。時代性を睨み、(失敗したと言えど)前作での成果を更に絞った感がございます。
John Sykes正式加入時には大半の作曲が完成、というこの作品。
されど御馴染みThin Lizzy路線の楽曲は3曲のみというもので、他は質は非常に高いものの従来の路線としては非常に異色感のある楽曲が揃うというもの。
作品全体的に非常に躍動感と勢い、スリリングさに満ちており、新生Thin Lizzyという感。
Thin Lizzy特有の単音メロディアス・ツインギターが随分と控えられ、Scott Gorham/John Sykes(/(時に)Darren Wharton)がそれぞれの個性を強く打ち出すというもの。
プロデューサーも(メタル系で後に御馴染みとなりますが)当時は故Gary Mooreの(一時お蔵入りした)”Dirty Fingers”やJohn Sykes在籍時の”Tygers of Pang Tang”等を手掛け、
NWOBHM等メタル系で仕事を広げつつあったという感のあった故Chris Tsangarides。
メタル色を非常に強めた感がございます。
但し、小洒落た感覚や洗練された音楽性を有するこのThin Lizzy。それをNew Wave系の音楽性を絡めて、今作の音楽性に持ち込んでいる事がミソ。
単なるメタル作とは異なる、New Wave系の洗練さ/鋭さを加えた独自の音楽性を打ち出しております。
名手John Sykesの登場はバンドにとって相当なインパクトだった模様。
作曲中心のダブリンからロンドンに移行し本格的制作に入ってからはSykes/Wharton主導で進められた感がございます。
John Sykes自身は非常に押しの強いはっきりとした人間性。
加入した限りは音楽性に意見を言うという感があり、(「才能を非常に高く買っていた」故Phil Lynottの後ろ盾もあり)同じ若手で前作に相当な貢献をしたDarren Whartonと組み、
バンドの音楽性を変革していった感がございます。
(そこが名手Scott Gorhamとの確執を呼び、後々にも.............という感がございますが........................Scott Gorham曰く「もっとThin Lizzyの有り方を学ぶべきであった」云々と.........)
後ろ盾となった故Phil Lynottはこの名手John Sykesに盟友故Gary Mooreの嘗ての姿を重ね合わせていた感がございます。
トリオ時代Thin Lizzyに加入したものの、故John Hiseman(ex-Colosseum)からのアプローチを受け、「自分の腕と才能を試してみたい」と”Night Life”製作初期に離脱。
英国版”Return to Forever”と呼ばれた”Colosseum Ⅱ”結成に(かの名手Don Aireyと)参加。
(その”Colosseum Ⅱ”のBBCライヴを聴いたJohn Sykesは、本格的にプロとのしての道を歩む事を決意、という因果..........)
その解散後再加入するものの「ミュージシャン特有の私生活問題」が蔓延するバンドに異を唱え、解決が見られぬと失望しツアー中に突如脱退。
(Brian Downey一時離脱にオーディション選考を受けたかの名手Terry Bozzio曰く「Gary Mooreとは非常に馬が合ったが、他が......」とThin Lizzyのかの問題を指摘)
才能溢れる姿とミュージシャンとして歯に着せぬ言動・行動に、同じ姿を重ねていた感が致します............................
(”サイクシー”なるあだ名を付けて可愛がっていた位ですから..........)
制作前から解散は決定しており、リリース後は解散ツアーを銘打ち、活動開始。
リリース後は非常な好評を呼び(但し、米国では前作同様惨敗)、ツアーも解散という事があり動員もかなりのもの。
追加が追加を呼びツアーは延長を重ねる事となりますが、Thin Lizzyを蝕み続けた「長年のミュージシャン特有の私生活問題」が極限に迫りつつあり、主要3名を疲弊させていく事となります。
1983年9月、当時の西ドイツでのフェスティバルを最後に解散となりますが、演奏された名バラード”Still in Love with You”ではバンド・ローディ等々がステージに登場。
涙ながらに合唱という場面が見られた模様でございますが、裏腹にScott Gorham等は「早く終わらないかな.........」と感じていた模様。
何とも言い難い終焉を迎える事となります...........................................
この機会に是非。